真宗佛光寺派 本山佛光寺

お話

「みんな みんな 意味がある」

根本の願い

 「人間なんのために生きとるげん」

もしこんなことを、小さい子からいきなり聞かれたら、どう答えますか。これは小学校一年生、まゆみちゃんの作文だそうです。石川県の松任小学校で入学後一ヶ月のまだ文字を習ったばかりの子どもたちに、自分の気持ちを自由に表現するように教えて書かせた文集『子供の目』の中にあったものだそうです。

「私はなんのために生きているのか」どうでしょうか。ちょっと即答できませんね。「なんのために生きとるげん」とは、目的を問うていると同時に、ずばり「人間ってなんだろう」という本質の問いでもあります。別に悩んだ末の言葉ではなく、おそらくはふと浮かんだ気持ちを文字にしただけでしょうが、本当に大きな問いです。

 「今は子どものために頑張って働いている」「教育費が足りない」「家のローンのため」等、直面している問題はあっても、冒頭の問いに答えていない思いが残ります。その時々の状況の説明ではなく、もっと本質的なこと、「生きている」ってどういうことなんだろう、という問題は手付かずだったのです。

現代人は生きることそのものの根本感覚を失って、生きる為の手段で疲労困憊している、とはつとに指摘されていることがらですが、正面切って「人間なんのために生きとるげん」と問われてみると、何の答も持ち合わせていない私が暴露されてしまったのです。

 うまく現代を渡るためには、取りあえず勉強はできた方がいい、広い知識もあった方がいい、ということでいきおい机の上の勉強が多くなります。戸外は満天の星空なのに、机の上で星の動きの勉強をしたりします。夕日に感動する暇もなく塾通いに忙しい現代の子どもたち。カヌーイストの野田知佑さんは「受験勉強以外、大人も子供も人生体験を欠いている点で、日本の社会は重傷だ。アラスカで会った日本人青年にライフルを手渡すと、取り落とすことがよくある。これは勉強ばかりで筋肉を使わず、指の第一関節から先だけで生きている象徴的な例だ」と指摘されています。「指の第一関節から先」だけで生きている、とは思い当たる場面も多く、言われてみれば全くいびつです。

「人間なんのために生きとるげん」の問いに答えきれません。生きることの本質、どこから来て、どこに向かうのか、食わねば死ぬというけれど、食っても死ぬこの一生とはどういうことなのか、根本の問いに答えようとすれば、教えの言葉に触れなければなりません。

 

願いの中に

 仏法は生きること全体を「生老病死」と捉えます。一歩深めれば「生の内容は老病死である」という見きわめですが、私たちの本音は生はいいけど、老病死はまっぴらごめん。誕生日はお祝いするけれど、命日は考えるのもいや、が正直なところです。

でも、もう少し考えてみれば、誕生日だって知ってるつもりですが、本当は知りません。その日はお天気良かったですか、と聞かれれば明らかなように、自分からは分りません。聞かされて知ってるつもりなだけです。では命日はどうでしょう。

当然分りません。分らなくて不都合かといえば、そうでもなく、むしろ分らないから、安心して暮らしているともいえます。

もし一年後の今日があなたのご命日ですよ、と親切にも教えられたらいかがでしょうか。想像してみるのも大事ですが、どちらにせよ誕生日から命日の間を生きているのが我らの現実であり、今日、ただ今なのです。そして、その両日も実は自分では分からない。分からないけれども、見守られているのではないでしょうか。

誕生日は親たちに見守られ、命日は親族に見守られ、もし誰も近くにいないにしても仏に見守られている確信が、浄土の世界ではないでしょうか。

そういう確信が南無阿弥陀仏の一声で開かれるのが、念仏の教えではないでしょうか。その念仏の教えに帰れば、私たちの一生は「生老病死」と共にあり、また諸仏に見守られた一生なのです。

つまり私たちの一生は、願われた願いの中の一生と言えないでしょうか。母や親たちのどれだけの願いの中で、「オギャー」と誕生したことか。自我の発達と共に忘れ去って成長していきますが、またわが子の誕生に無限の願いをかけて親となります。また同時にわが子からも願われて

います。

 

「父よ 母よ

 もう中学生だけど

 私が泣いていたら

 抱きしめてくれますか」

 

 滋賀県で、荒れるクラスに困り抜いた担任がクラス全員に「父よ母よ」というタイトルで書かせた作文のトップの作品です。中学二年生の本音でしょう。親からも願われ、子どもからも願われ、つまり諸仏の願いの中にあるのが私の一生です。

 そういう願いの中にある私、という立脚地が明らかになれば、身に起きてくる全てのことも意味をもって頂けるのではないでしょうか。人生に聞法という方向が生まれてきます。

限りある一生の中で、法を聞くという人生の時を持つことが、いかに尊い時かと思わされます。

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