真宗佛光寺派 本山佛光寺

2019年10月のともしび

常照我

撮影 藤末 光紹氏撮影 藤末 光紹氏

 「庭のコスモスが、今年は特別に美しく感じます」
 おつれあいの一周忌を前に、ご門徒さんが語られた。
 「夫に先立たれて、もう会えない、夢にも出てこないと泣いて過ごしていましたが、もう大丈夫です。ここにいます」
 ポンと胸をたたいた。
 「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」という金子大榮師のことばがある。花は散り果てた季節でも、私がその花を思い浮かべた瞬間に美しい花があらわれる。幼い頃から幾度もその花を見てきた経験が私にあるからだ。
 同じように私の人生は、大切な人とともに過ごした時間を宿している。その人の願いが入っている。私が掌を合わせるところに、いつでもその方は仏さまとなって、あらわれるのだ。

  (機関紙「ともしび」令和元年10月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

浄土にてかならずかならず、
まちまいらせそうろうべし。

『親鸞聖人御消息集』より(「佛光寺聖典」七四二頁)


【意訳】

 お浄土で、かならず、かならず、
あなたをお待ちしております。


いつでもそばに
 妻の祖父と祖母のお話。認知症の祖母は、家族で介護されていましたが、症状が進んだため、ホームに移ることになりました。
 祖父と長年連れ添い、祖父を頼りに生きていた祖母でしたので、家を出る時は泣いて怒って大変だったそうです。
 しかしそれから元気だった祖父の方が気が抜けたように弱り、先に亡くなってしまったのです。
 お葬式の時、車椅子に乗り、お棺をのぞき込んだ祖母は、認知症でも別れが分かったでしょう。祖母はいつでもそばにいたかったはずです。それを想って家族が愛情を込めて言いました。
 「おじいちゃん…、私たちやおばあちゃんも、すぐいきますからね」
 すると祖母はすかさず、
 「ワシゃまだいかん!」
 その一言で、会場は温かな笑いに包まれました。

かならず、かならず
 上の言葉は、門弟が親鸞聖人からいただいたお手紙の一節です。彼がいただいた最後の手紙だったかもしれません。親鸞聖人の別れの言葉です。
 「私自身も、もうそうとうの年齢になりましたから、きっとあなたより先に往生するでしょう。けれども、お浄土で必ず、必ず、あなたをお待ちしていますよ」
 「必ず、必ず」そう繰り返して終わっていくお手紙は、何度読み返しても尽きせぬ深い味わいがあります。
 だれもがお念仏一つで「必ず待っている」と言える、豊かないのちの世界を開いて下さったのが親鸞聖人でした。
 「ワシゃまだいかん!」と言いながら、それでもお念仏申して、同じところへゆかせていただけるのだと喜べることが、お念仏の尊さなのでしょう。

  (機関紙「ともしび」令和元年10月号より)

 

仏教あれこれ

「食物連鎖」の巻

 「草、タカ、カマキリ、トノサマバッタ、モズ」。食べられる側から食べる側の順になるように、名前を書きましょう。
 答えは「草→トノサマバッタ→カマキリ→モズ→タカ」。
 「食物連鎖」を習う小学六年生の息子が、宿題のプリントに解答を書き込んでいました。
 その宿題を終えて、夕食時、私は息子にこう言いました。
 「植物プランクトンを動物プランクトンが食べ、それをイワシなどの小魚が食べ、それをサバなどが食べ、それをブリが食べる。そしてそのブリを人間が食べる。私たちは、おおいなるつながりの中で生かされていて、どれがいなくなっても食物連鎖がくずれて、人間は困ってしまうよ。だからこのブリも心していただかないと」
 そんなとき一匹の蚊が食卓の上を飛んでいました。それを見つけた妻がパチン。でも見事に逃げられてひと言、「蚊がいなくても困らないのでは?」。
 それに対して息子は「でも蚊がいなくなるとそれを食べるカエルが困る。カエルがいなくなったらヘビが困ってしまう」。
 それを聞いた私はすかさず「でも蚊やカエルやヘビがいなくなっても誰も困らない」と。息子は「さっき、どれがいなくなっても困ってしまうと言ってたのに……」。
 「おおいなるつながりの中で」と言っておきながらも、困るとか困らないとか、自分を中心とした眼でしか見ることができないない私たち大人だったのです。
 そんな姿をあざ笑うかのように、先程の蚊が隣の部屋へと逃げて行ったのでした。

  (機関紙「ともしび」令和元年10月号より)

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