真宗佛光寺派 本山佛光寺

2019年7月のともしび

常照我

勝林院 撮影 藤末 光紹氏勝林院 撮影 藤末 光紹氏

 本堂に入るとひんやりとした空気の中、阿弥陀如来は静かに座っておられる。団体の人たちが出て行ったあと、仏さまを見上げ、ひとり合掌する。
 すると仏像を見に来たつもりの私が、仏さまから見つめられていることに気づかされる。悩んでいる私の奥底まで見つめられている。「ああ、私は今まで何をして来たのか……」恥ずかしい気持ちがわきおこった。
 もう一度仰ぎ見ると、阿弥陀如来は変わらず私を包み込んで座っておられる。「ナムアミダブツ」の喚び声が私へと響いてくるようだ。
 ああ、そうだった。右往左往している私のいのちそのものが、すでに仏さまから願われていたのだった。私はこのままの姿で歩んで行けるのだと、深い思いが身に流れた。

  (機関紙「ともしび」令和元年7月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

摂取の心光、常に照護したまう。

『正信偈』より(「佛光寺聖典」二二七頁)


【意訳】

 阿弥陀さまが一切衆生を救いたいと願われているお心の光が、私たちを常に照らしまもってくださるのです。


 新年度が始まってしばらく経ち、公務員や教員、会社員の友人たちから、春に異動になり、新たな環境や役割でがんばっていますとの近況報告がちらほら入ります。また別の友人からは、行き詰まりを感じるので転職を考えています、との話も。


比べてしまう癖
 異動や転勤、転職となれば、それまでとは違う環境や人々に囲まれ、新たなスタートです。
 望むも望まないも、環境や役割は変わってゆくものですが、変化が怖い私は、つい、同じ場所で同じことをしていたいと思ってしまいます。そして、よどみなく変わっていく人の話を聞いては、変わりたくない自分はダメだと劣等感を抱いてみたり、はたまた、自分は一つところで貫徹しているぞと一人よがりの優越感にひたってみたり。気づけば、他人と比べては一喜一憂している私です。

比べなくていい
 そんな折、とある法話会で、右往左往する私の姿をまさに言い当てられ、ハッとしました。
 「人と比べては苦しむ、そんな生き方を転換する教えが仏教です。比べる必要のない阿弥陀さまの世界をお聞きしているのに、でも、私たちはついつい比べてしまうんですね」
 そうだ、人と比べるのをやめてみれば、私だって、新しい家族ができたり、新しい仕事仲間が加わって意外な展開があったり。着実に変化している日々を生きているではないか。
 そんな私を、阿弥陀さまは見捨てずに照らし続けてくださっていました。常に照護したまう阿弥陀さまのお心が、布教使さんのお話を通して、私に届いたのです。

  (機関紙「ともしび」令和元年7月号より)

 

仏教あれこれ

「体がついていかん」の巻

 半年ほど前のことです。仕事に仕事が重なり、分刻みで動いているような日が三日ほど続きました。仕事はスムーズに進み、疲労といっても、まったく疲れません。ところが四日目の朝、目を開くと天井がぐるぐるまわり、ひどいめまいが私を襲いました。
 一時間ほど安静にしてめまいは止まりましたが、年齢はともかく気だけは若いと自負していた私には、大変ショックな出来事でした。
 気持ちだけでも若くもつのは大切としてきましたが、体はめまいという形で悲鳴をあげていたのです。
 「心身ともに健康」という言葉があるように、心と身がバラバラになったとき体調を崩すのでしょう。
 自分では、うまくバランスをとっているつもりで「ご無理なきように…」というねぎらいの言葉も、平気、平気とお愛想程度に聞き流してきたのかも知れません。
 よく見ると「ねぎらう」という字は「疲労」の「労」なんですね。さらに「労」は「労わる(いたわる)」と読みます。
 疲れの中に、しっかりと「ねぎらう」「いたわる」というが入っていること、気だけは若いと自負はしても過信はいけないということをあらためて知らされた次第です。

  (機関紙「ともしび」令和元年7月号より)

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