真宗佛光寺派 本山佛光寺

2016年10月のともしび

常照我

「秋桜(コスモス)」 撮影 中山 知子氏「秋桜(コスモス)」 撮影 中山 知子氏

 南無阿弥陀仏は報謝の称名だという。この「謝」という字、感謝の「謝」である一方、謝罪の「謝」でもある。
 感謝と謝罪。一見全く別の言葉だが、日常用語としての「ありがとう」と「すみません」は、区別を意識しない場面も多い。例えば、外でハンカチを落とし、それを「落としましたよ」と通りすがりの人に拾ってもらった時。「ありがとう」でいいのだが、とっさに出るのは「すみません」だったりする。手間をかけさせて申し訳ない、の意か。
 さて、南無阿弥陀仏という報謝の「謝」は、どちらの謝意か。阿弥陀さまへの感謝には、教えによって気づかされた我が身の愚かさへの申し訳なさが、内包されている。「すまないなあ、有り難いなあ」と両方があって、報謝になるのだろう。

  (機関紙「ともしび」平成28年10月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「なみだ汁」の巻

 本誌でご好評をいただいている「おときレシピ」のページ、毎号季節を感じるレシピが紹介され、わたし自身楽しみにしています。
 お斎とは一般的に、葬儀や法事など仏事の場で食する料理のことをさしますが、その内容に決まったものはなく、地方によって様々な風習があるようです。
 三重県のある地域では、真宗門徒の家でご家族が亡くなられた際、葬儀の席でお赤飯が供されます。一般的にお赤飯はお祝い事の際に出されるものとされていますから、不思議に思われる方もいるかもしれません。
 親鸞聖人は関東のお弟子さんが命終された報に触れられ、「そのめでたいことは言葉で言い表すことはできません」と述べられました。この世での命が終われば、必ず浄土へと往生し仏さまとならせていただく、それは大変ありがたく、まためでたいことなのです。その喜びを表すのがお赤飯なのでしょう。
 ただ、お赤飯と必ずセットで出されるものがあるそうです。それが、赤唐辛子を醤油のだしで煮出した唐辛子汁です。あまりの辛さゆえ、飲めば涙が出てしまうことから、別名「なみだ汁」とも呼ばれます。
 この世での命を終え、仏さまとなることは大変喜ばしいことだと、教えに照らし、頭では理解できる。しかし遺された家族としてはどうしても涙がこぼれてしまう。その遺された者の悲しさ寂しさを表すのが「なみだ汁」なのです。
 どこまでも人間の悲しみ、苦しみに寄り添おうとされる阿弥陀さまの願い。そのあたたかいお心を感じる風習です。

  (機関紙「ともしび」平成28年10月号より)

 

和讃に聞く

他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが親友ぞと
教主世尊はほめたもう

正像末和讃(『佛光寺聖典』六三六頁 五八首)


【意訳】

 仏さまの教えに生きようとする人を、尊き人と敬い喜び「私と同じ道を歩む親しき友」と、お釈迦さまはほめてくださるのです。


 先日、テレビを見ていると「親友と友達は、どうちがう?」ということをテーマにいろんな意見が出されていました。
 「なんでも話せる…」「相談にのってもらえる…」「いつもそばにいてくれる…」など、これが親友、これが友達と意見が飛び交う中、ひとりのタレントがこう言いました。
 「自分は親友と思っていても、相手が私のことを親友と思ってくれているのか心配…」。
 なるほど「両想い」なのか「片思い」なのかという心配もあるのでしょうが、お釈迦さまのおっしゃる「親友」は、日頃私たちのいう親友とは少しちがうようです。


教えを拠りどころに
 弟子たちから見れば、お釈迦さまは師です。ところがお釈迦さまは、弟子とは言わず親友と敬われます。一見、矛盾しているように思いますが、それは大変仲がいいということではなく、共なる教えを拠りどころとし、同じ道を歩む仲間ということに外なりません。
 親鸞聖人もまた、師弟の関係を超え「弟子一人ももたずそうろう」とおっしゃったように、どこまでも共にお念仏の教えを聞く仲間として敬われました。

価値観を超えて
 人間の価値観は個々にちがいます。しかし、教えの前にあっては、師であろうと弟子であろうと、煩悩具足の凡夫であり、御同朋であり、御同行です。
 そこに価値観のちがいを超えて、お互いがお互いをひとりの人間として尊び敬い、ほんとうの信頼関係が生まれてくるのでしょう。

  (機関紙「ともしび」平成28年10月号より)

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