真宗佛光寺派 本山佛光寺

2014年4月のともしび

常照我

「みんな違って みんないい」  撮影 谷口 良三氏「みんな違って みんないい」  撮影 谷口 良三氏

 

  幼き頃の思い出である。
 当時、飼っていた犬が伝染病
に罹患した。今日にも峠という夜、真っ暗な本堂に独り入り、阿弥陀さまの前で訳も分からず、懸命にお念仏を称えた。
 そんなものは真宗のお念仏ではない、とお叱りをうけるかもしれない。だが、あの苦しまぎれのお念仏は、何であったのかと今にして思う。
 約八百年前の四月、宗祖は法然聖人から『選択集』を伝え受けられた。自らについて何も語らない宗祖が、その歓喜を著す。
 それは人間の得手勝手な都合を突き破り、ひとを、ひととして歩ませようと至り届いた、確かな教えであった。  幼き私の口からこぼれ出たお念仏。無量の時を経て、確実に届いていた南無阿弥陀仏の意味を、今我が身に確かめたい。

 

  (機関紙「ともしび」平成26年4月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

 「語り継ぐ」の巻

「語り」には、目に見える情報がないからこそ、想像をかきたてる力があります。
 幼い頃、枕元で聞いた子守唄は、眼を閉じると私だけの風景を描けました。それは、40年経った今でも鮮明に思い出されてきます。小学一年生の詩です。 きのうゆうやけでした/なをあらいました/うたをうたってあらいました/かわのなかもゆうやけでした/なをあらえばゆうやけががさがさめげるのでわたしはそっとあらいました/なをうごかさんようにあらいました
 夕暮れに採った菜を、畑の横を流れる小川で洗っていたのでしょう。強く洗うと、水面に映るあかい夕焼けがこわれてしまう。作者は、優しい心を持った女の子かな。隣にいるおばあちゃんに、学校で習った歌を聞いてもらい、友だちや宿題のことを話したのでしょう。菜をそっと洗いながら、おばあちゃんを見上げる小さな顔が目に浮かびます。やがて二人の長い影は家路をたどり、台所で横に並びながら夕食の準備をしたのでしょう。そんな営みを思い出させる詩です。
 物語は、心に思いが生まれます。悲しみも喜びもその時々ですが、それが幾重にも記憶され、人は他と共存できる糧を得るのではないでしょうか。そして、過去が大きく深くなるほど、苦悩の日常を超えて生きていく力となるのでしょう。
 春先に笑まう草花も、緑に着飾る木々も、優しい笑顔も、有り難いいのちを継いでこられたがゆえの感動です。今日も多くの言葉が何処かで語られています。外を少し歩いてみようかな。

 

 (機関紙「ともしび」平成26年4月号より)

 

 

和讃に聞く

 

「高僧和讃」

尽十方の無礙光は
 無明のやみをてらしつつ
 一念歓喜するひとを
 かならず滅度にいたらしむ



「高僧和讃」(『佛光寺聖典』610頁38首)

 

【意訳】

 尽きることのない阿弥陀さまの智慧の光は、自分で全て分かったつもりになって、まことのありように気づかない私の姿を明らかに照らし出してくださいます。そのお心を疑いなくいただいた時、「必ず救わん」という阿弥陀さまの願いにたすけられるのです。

 タイのバンコクへ一人旅をした時のこと。初めて飛行機もホテルも自分で手配し、市内観光も自分の足で歩いて回りました。インターネットを駆使すれば、他国の情報も簡単に入手可能な時代。悪天候で飛行機が半日遅延しましたが、ネットで運行状況を調べて慌てず対処。色々な事態に独力で対応できたことに、万能感さえ覚えたものでした。
 誰のお世話にもならず自分でやった、と満足していましたが、とんでもない勘違い。力を尽くして遅延の対応にあたっている航空会社の人達の姿を見て、私は、整備された交通機関やネットという情報ツールに便乗していただけで、実際は多くのはたらきに支えられていたことに気づかされました。



 無明の闇

 「分かったつもりになって、本当のありようには全く気づいていないのが、私の姿なのです」とは、それまでも聞法の場で何度も聞いてきたのに、結局は自分とは切り離して聞き流していたことを突きつけられ、ウッとなりました。我が身の事実から目をそらしていた、まさに無明の姿でした。

 尽十方の無礙光
 私が私の無明を知らされたというのは、阿弥陀さまの智慧のお力が私に届いたということ。そのお力を、遮られることも尽きることもなく全てに注がれる光になぞらえて、「尽十方の無礙光」と讃えられているのです。

 我が身の無明への気づきとは、同時に、阿弥陀さまの尽きることのない智慧のはたらきが私を照らして下さることの頼もしさ。だってそれは「必ず救わん」という阿弥陀さまの願いの光に、いま出遇っているということなのですから。

 

 (機関紙「ともしび」平成26年4月号より)

 

 

一語一縁

「フォアグラ
のバッグ
いいねえ…」

 

雑誌の中の宣伝広告を見ていた妻が、思わずつぶやいたことばですが、聞いていた娘たちが一瞬の沈黙の後、思わず爆笑して言いました。
 「フェラガモでしょう?」
 「ああ、そうそうフェラガモね」と平然たるご本人。
 ちなみに「フォアグラ」は、世界三大珍味のガチョウの肝臓であり、「フェラガモ」は、女性憧れのイタリアのブランドの名。なるほど、似てはいます。

 生涯まちがえては

 おしゃれにも食べ物にも関心が深い妻ならではのマチガイ。
 我が家では、フォアグラを取るのにガチョウに残酷な飼育をするので食べませんが…。
 以上は、罪のない一口話。
 しかし、お念仏を勘違いして受けとると、生涯まちがいつづけることになります。
 ナムアミダブツは、より多くのみなさんが解釈されているような「たすけてくださいアミダさま」では、ありません。
 すでにご本願が成就して、私たちのすくいが無条件に約束されているのがお念仏であるのです。従って、「たすけてくださるアミダさま」という信受、報謝の念で称えるお念仏なのですね。一字違いで、天と地ほどに称える側のこころの内容が変わります。
 そもそも、「たすけてください」とは、まだ現在たすかっていない告白をしていることにもなり、お念仏を称えるたびに、たすかっていない自分が見えかくれしてしまいます。
 そういう救主がアミダさまなら、私たちは、最初から「たのむ」も「まかせる」もできないのではないでしょうか。
 そのことを期せずして思い起こさせてくれた、妻の他愛ない勘違いでした。

 

 (機関紙「ともしび」平成26年4月号より)

このホームページは「本山佛光寺」が運営しています。ホームページに掲載されている画像の転用については一切禁止いたします。また文章の転載についてはご連絡をお願いします。

ページの先頭へ