真宗佛光寺派 本山佛光寺

2012年8月のともしび

常照我

宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要  尺八と筝の演奏  画 佐藤政治宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要  尺八と筝の演奏  画 佐藤政治

 

  遠い夏の日、些細なことで仲のよかった友達と、取っ組みあいのけんかをしたことがある。
 顔にひっかき傷をつけた私に、祖母はこう言った。
 「仏さまが見ているよ」
 今ではすっかりと聞かない言葉となった一方、街のあちこちでは防犯カメラが、人間の素行を見ている。
 古く真宗門徒にとって「仏さま」という言葉は、生活の一部というよりも、生活そのものであった。
 仏さまの眼に映る自身の姿は、決定的証拠というカサついたものでなく、証拠を必要としない身の事実としていただかれてきたのであろう。
 ときはお盆。  南無阿弥陀仏と念仏申すとき、幼き私を見つめていた祖母が言葉となってかえってくる。

 

  (機関紙「ともしび」平成24年8月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「『?』と『!』」の巻

19Cのフランス。
 売り出し中の作家、ビクトル・ユーゴー。満を持して書いた長編小説『レ・ミゼラブル』第一巻の評判が気になり、出版先のパリにあるガリマール書店に手紙を出します。
 内容は一字だけの『?』。
 それに対する社主の返信がまた一字の『!』。
 「売れ行きはいかがですか?」
 「いやー、売れて売れてびっくりですよ!」という、世界一短かい往復書簡として伝わっています。
 後世の創作らしいですが、何とも粋でユーモアに満ちた言葉のやりとりではありませんか。
 しかし、考えてみるとこの二字といいますか二記号は、私たち自身の念仏の教えの受け取り方にも当て嵌る気がします。
 養鶏業を営んできたおじいさん、70歳になって子ども時代から家業のためとはいえ絞め殺してきた鶏の、トサカが紫色になって挙げる断末魔の声を、夢にまで見てうなされるようになりました。
 遂にいたたまれなくなり、地元の真宗学の先生のもとをたずねていきます。
 「念仏の教えは、どんな悪人をも救うとお聞きしてきましたが、こんな私のような者でも本当に救われるのでしょうか?」
 必死の『?』です。
 対するに先生は、深い同感をこめて、「 あなたが救われずに誰が救われるんですか」と、応じられたことです。
 そして、その時のおじいさんの心中こそまさに『!』で、言いようのない驚きと喜びに包まれていったであろうことを、想像せずにはおれません。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年8月号より)

 

和讃に聞く

 

浄土和讃

五濁悪時悪世界
濁悪邪見の衆生には
弥陀の名号あたえてぞ
恒沙の諸仏すすめたる
『佛光寺聖典』五九五頁 八十六首


 

【意訳】

 正しい教えが見えにくくなっている現代、真理を受け入れにくくなっ
ている私たち。
 そんな私たちを正しく導いてくださるのがお念仏だよと、仏さま方が
おすすめくださっています。
 皆さんは宅配便のサービスを利用する機会はどのくらいありますか?昨今はインターネット通販が普及し、昔に比べて荷物を受け取る機会が増えた人も多いのではないでしょうか。会社にお勤めの方などは、仕事上で宅配便を毎日のように利用している方もおられるでしょう。
 最近の宅配便はとても便利で、お届け日時指定サービスが使えたりコンビニで受け取れたりもします。私などは、自分の都合に合わせて荷物を届けてくれる快適さにすっかり慣れてしまい、時に何らかのトラブルで狙った日時に届かないとイライラしてしまう始末です。

 

 濁世とは
 宅配便は一例ですが、私たちは知らず知らずのうちに、身の回りのことを常に思い通りにコントロールできているのが当たり前と錯覚してしまいます。
 「五濁」「悪世」と聞くと、「悪」という言葉の響きからか、凶悪犯罪や大災害など「世も末」というイメージが想起されると思います。もちろんそのような直接的な意味合いもありますが、何でも思い通りにできると錯覚していることこそが、私たちの邪見であり、現代社会の濁りなのではないでしょうか。

 道理にうなずくこと
 身の回りのことを自在にコントロールできるのが当たり前に感じられる今の時代、この世の全てのものは常に変化しており人の思い通りには操れないのだ、というお釈迦さまが説かれた真理に素直にうなずくのはなかなか難しいことです。
 そんな私たちが道理に素直にうなずけるよう、お念仏を通して日々はたらきかけてくださっているのが、阿弥陀さまなのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年8月号より)

 

一語一縁

ぼくは ここに いるよ。
 I'll be right here.
           映画『E.T.』より

 映画『E.T.』(1982年、米映画。監督S・スピルバーグ。)で宇宙人E.T.が母船へ帰る時、少年に告げた別れのセリフ。
『E.T.』は奇妙な宇宙人と少年達との心の交流を描いた名作SFファンタジーで、E.T.とは地球外生命体という意味。
 地球に取り残された宇宙人ETは十歳の少年エリオットと出会い、心通わせていきます。そしてエリオットと兄弟たちはこの心優しい友人を宇宙に帰そうと考えます。様々な困難を乗り越え、ETが母船に帰る別れのラストシーンは感動的です。
 宇宙へ「イコウ。」と誘うETに少年は残ると告げます。ETはいつも少年のケガの痛みに共感し「イタイ」と言って治してくれたのですが、今度は自分の胸を指さしてそのセリフを言うのです。別れに心が痛んでいるのです。そして少年の頭を指さし彼が語った別れのセリフが「僕はここにいるよ」だったのです。

 

こころを包む言葉
 ここでのセリフは厳選され、まさに脚本の妙という感があります。というのも、ETは宇宙人ですから地球の言葉は少年との交流を通じてしか覚えることはないのです。ではETは最後の言葉をどこで覚えたのか。それは実はETが瀕死の病に倒れた時、少年が叫んだ言葉だったのです。途切れていく意識の中でETは少年の呼び声を聞いていたのです。「僕はここにいるよ」。それが別れの時の言葉となったのは、その言葉の中に自分を想う深い気持ちと生命を包むような安心感を感じたからではないでしょうか。
 お念仏は、阿弥陀さまの「お前を救う仏がここにおるぞ」という喚び声です。誰よりも私を想う方がそばにいてくださるということ。これこそがお念仏のたのもしさではないでしょうか。「ここにいる」と聞こえるお念仏の確かさ。それが私たちの孤独な世界を豊かに包んでいくのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年8月号より)

 

 
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