真宗佛光寺派 本山佛光寺

2012年4月のともしび

常照我

大遠忌境内

 

真新しいランドセルを背負った子どもたちが、始まったばかりの生活に胸躍らせ道をゆく。
  行き交う人の別れと出会いが錯綜するこの季節、お釈迦さまは産声をあげた。

  天の上にも天の下にも、我ただ独りにして尊し。

今から二五〇〇年以上も前のことである。
  尊きいのちをたまわったのは、お釈迦さまだけではない。
  誰もがみな比べることの出来ない、比べる必要のない尊きいのちをたまわっている。
  咲き誇る桜から、大地に目を移すと、名も知れぬ花が顔をのぞかせている。
  幼き日、重くて嫌だったランドセルには、目には見えない大きな願いが詰まっていたことを
今にして知るいのち満開の春。

 

  (機関紙「ともしび」平成24年4月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「摂取」の巻

 「カロリー摂取は控えめに」「ビタミンを摂取しましょう」。などなど、栄養の「摂取」の話は今や雑誌やテレビでは欠かせない情報です。そのヒケツはバランスよく食べること。ごはんをいただくときいつも言われた「品を選ばず・好き嫌いをせず・残さない」ことが大切なんですね。「選ばず・嫌わず・残さず」これは偏った食生活を改善するだけではなく、実はいただく「いのち」そのものに対しての姿勢でもあるのではないしょうか。
 この「摂取」、仏教では阿弥陀さまのはたらきを表す言葉として説かれています。「摂取して捨てず」。それは、一人ももらさずおさめ取り、むかえ取る心、ひとたび取ってながく捨てない心、つまりどんなことがあっても決して見捨てないという慈悲の心です。私がどんな人生を送ろうとも、良い悪いを選ぶことなく、決して嫌わず、決して見捨てず、大切ないのちとしていつも願いをかけて、大きな御手で包み取って下さっていることを「摂取」というのです。
 ご飯をいただくときは、「選ばず・嫌わず・残さず」と、いただくいのちに手を合わせたいですね。そしてお内仏に手を合わせるときは「選ばず・嫌わず・見捨てず」との呼び声を、お念仏を通して聞いてみて下さい。私のいのちにかけられた阿弥陀さまの願いが、「決してお前を見捨てはしないよ」と包んで下さっています。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年4月号より)

 

和讃に聞く

 

清浄光明ならびなし
遇斯光のゆへなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ
(『浄土和讃』)

 

【意訳】

 阿弥陀仏の、この上もなく清らかな智慧の光明は、仏法に背を向けているこの身には、遇うことのむずかしい光ですが、遇えば私たちのこころの悪業への縛りを取り除く、究極のよりどころとなるのです。

 よく聴聞されてきた奥さん。あるとき真剣なお顔で、「友だちが、『 私は真宗の教えに遇って本当によかったと思っている。
この教え以外をいいと思ったこともなければ、この教えを疑ったこともない、真宗一筋』って言うんだけど、私、とてもそんなにまでは思えなくて、考え込んでしまったの」とおっしゃいました。

 

 照らされる業繋
 私は、「問答無用で、かえって疑問を感じるのでしょう?」とお訊ねしました。
 すると、「そうそう、信じてきたつもりでも、聴聞の途中でハテナ?と思うことの連続でした」と。「それで、なお聞くようになられて、今日まできたんですね」「ハイ」
 教えに遇うということは、その教えを体現した如くに立派な人間になるんじゃなく、逆にわが身の不自由、つまり業繋や、身勝手さが照らされて見えてくる、ということです。
 清浄光明に遇って、気ままな私の姿が見えてくるのです。

 「ひとり」じゃなかった
 その奥さん、旦那さんを亡くされて二回目の正月を、今年迎えられました。
 年頭にいただいた年賀状に、「 また、今年もひとりぼっちの正月かと思ってましたが、ふと気づかされると、いつもいつも如来さまと二人づれの人生の旅でした 」とありました。
 「 遇い難い」ひかりに遇いえた姿が、かいま見られて、あたたかい気持にさせられました。 私たちの人生の旅は、これさえあれば絶対大丈夫、と何かを握りしめるのではなく、究極のよりどころに安心して身をまかせていける、そんな旅でありたいものです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年4月号より)

 
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