真宗佛光寺派 本山佛光寺

よくある質問

21. 真宗門徒にふさわしい「弔電」を教えてください。

 葬儀に参列して何気なく聞き流してしまうが弔電です。「○○さまのご逝去をいたみ、謹んでご冥福をお祈りいたします」というのが一つのパターンのようです。
 冥福とは、あの世での幸せを意味しますが、浄土往生を遂げ、仏さまとならせていただく真宗の教えでは必要ありません。
 それよりも、冥福を祈らずにはおれない根底には、死者を仏さまとしていただけず、自らもお念仏に生きることなく、迷っている自分の姿があります。
 また、「安らかにお眠り下さい」という言葉もよく耳にしますが、仏さまとなられた亡き人は私たちに「自己に目覚めよ」と願っておられるのです。
 弔辞や弔電は哀悼の意を表すものですから、一般的な例をあげて申し上げるならば「ご逝去の報に接し、心から、お悔やみ申し上げます」「つつしんで哀悼の意を表します」など簡素なものが、ふさわしいのではないでしょうか。
 加えて「草葉の陰」「ご霊前」や「昇天」「泉下」という言葉も好ましくありません。
 わずかなことと思われるかも知れませんが、いただいた弔電ならともかく、真宗門徒を名乗る身であるならば、自己の在り方を問われる大切な事柄です。
 言葉一つにも気をつけたいものです。

22. 「お性根入れ」について教えてください。

 お仏壇を新しくされた時やお墓を建立された時、俗に「魂入れ」「お性根入れ」と呼ばれる法要が勤められます。
 しかし、よく考えてみますとお念仏の教えをいただく私たちが、仏様の魂を入れたり、お性根を入れたりするというのは、ずいぶん思い上がった言い方ではないでしょうか。
 真宗では、お仏壇に新しくご本尊をお迎えする法要を「入仏法要」といいます。
 「入仏法要」とは、家庭の中心となる仏様をお迎え出来たことを喜び、そのお徳を讃える法要です。
 以前、ある聞法熱心なおばあさんのお宅で「入仏法要」を勤めさせていただいた時のことです。勤行を終えると、そのおばあさんが「これは、仏壇ではない、いまご院さんにお勤めしてもらったから、お内仏や」と言われたことが今も脳裏に残っています。
 古くから真宗門徒は、お仏壇をお内仏と呼び習わし、心の拠り所としてきたことがこの言葉から改めて知らされたことでありました。
 そのことから申しますと、どこまでいっても自己中心的な在り方、仏様の性根まで入れかねない傲慢な私の性根を、根底から叩き直していただく場が「お内仏」でありましょう。
 補足となりましたが、以前からご本尊があって、新しいお仏壇にお移しする場合や、お仏壇をお洗濯(修理)に出される場合は「遷仏法要」といいます。

23. 「厄年」について教えてください。

 まず、質問の内容から吟味したいのですが、ご主人の「厄年」をどう受け取ればよいのかという質問なのか、あるいは、「厄年」を迷信と思いつつも、何か心に引っ掛かる「私」をどう受け取ればよいのかという質問なのかを、はっきりさせる必要があります。
 いわゆる厄年は、体に変調を起こしやすい年をいいますが、それ以上に霊的なことを思われているようでしたら、その厄年を迷信と思いつつも、心に引っ掛かる「あなた自身」に問題があるようです。
 ある先生から聞いた話ですが、その先生は飛行機によく乗られその度に「落ちないだろうか」と心配される。
 しかし、シートに体を沈めてよくよく考えてみると、「落ちないだろうか」と心配することと「落ちる」ことは別のものということがわかった。そして私たちは生活の中で、「当てが外れる」と言うが、当てとしないこともまた外れるものだと教えていただいたことがありました。
 いただいた一年を「厄年」という言葉に縛られて、ビクビクと生きるより、予期せぬ出来事が起きたら起きたで、そこをご縁として生き抜く智慧を賜りたいものです。
 毎日、毎日が生まれて初めての尊き一日です。
 お念仏を申す生活に「厄年」という年はありません。

24. 「先祖供養」について教えてください。

 まず、あなたのおっしやる「先祖供養」とは、どういうことでしょうか。
 もし、お経をあげる、お供え物をする、そういうことが先祖の供養と思われているようでしたら、残念ながら真宗には、そういう意味での先祖供養はありません。
 法事をした時に、「先祖のために……」と言われる人ほど「これでホッとしました」と言われますが、そこには「供養をしてあげた…」という生者の思い上がりしか見えず、先祖のことなど、どこかに飛んでしまっています。
 実は、そのような我身が問題となり、そのことを問わずにおれなくなるのが、お念仏のはたらきなのです。
 親鸞聖人は先立って亡くなられた方々を「諸仏」として拝まれました。
 それは、こんな私を南無阿弥陀仏の教えに導いてくださった尊い方々であるということです。
 具体的に申し上げるならば、私たちは先立って亡くなられた方がなければ、お念仏はおろか手を合わせることすらしないのではないでしょうか。
 亡き人を通して、この私がお念仏の教えに遇わせていただくこと、これこそ本当の意昧での供養ということでありましょう。

25. 「方便」とはどういう意味ですか?

 お仏壇を新調するにあたって、ご本尊をお願いしましたところ、裏に「方便法身尊形」と書かれてありました。「嘘も方便」とはよく使う言葉ですが、それとここで使われている「方便」とはどのように違うのですか。
 「嘘と坊主の頭はいった(結った)ことがない」とは市井の駄洒落ですが、人間が救われる真実の道を伝えようとする仏教が、「嘘も方便」とは納得いかないと思います。
 もともと「嘘も方便」という場合の方便は、真実を伝える手段としての比喩を表わし、その比喩は本物ではない、つまり偽りであり嘘だ、ということから派生したものです。
 ところで、方便には二つの解釈があります。一つは前述したように、真実に誘引せんがための仮の手立てという意味。もう一つは、真実は方便となって衆生に働くという意味です。
 前者は教育等種々使われていますが、後者は仏教だけです。
 無相無色(形も色もない)の法身が、形や色でしか判断出来ない私に、有相有色の身となって働く。
 そしてその働きを通して働きこそが法身であったと頷かしめることを方便という。
 神仏を実体化し、約束や許しを乞う宗教とは異なり、真宗のご本尊は働きを意味します。

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