真宗佛光寺派 本山佛光寺

2015年4月のともしび

常照我

「親子の絆」 撮影 谷口 良三氏「親子の絆」 撮影 谷口 良三氏

 

 ヒナ鳥には「刷り込み」といって、生まれて初めに見たものを親と思う習性があります。ヒナには親が必要なのです。
 人間はどうでしょうか。恐らく親の方から「お母さんよ、お父さんだよ」と呼びかけられて育ったのではないでしょうか。
 誰よりも近くにあり、愛を寄せ可愛いがってくれる方、それを親というのです。ですから人の親はわが子を思う気持ちによって初めて「親」となり、子はその親の呼びかけによって初めて親をもつのでしょう。
 如来さまは「衆生を一子のごとく憐念す」とあります。それは、決して見捨てない親がここにいるとの誓いなのです。
 如来にわが子と願われている私なのです。その願いに対し私は、阿弥陀さまを親と仰ぐことができているのでしょうか。

  (機関紙「ともしび」平成27年4月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「風邪薬」の巻

 久し振りに会う友人たちと、美味しい中華を食べようと約束した日。待ち合わせ場所に急ぎながら、嫌な予感がしました。急に体がだるく、歩いていても地面が柔らかく感じるのです。寒いはずなのに、コートの中に熱がこもります。嫌な予感は悪寒に変わり、私はドラッグストアに駆け込みました。風邪薬の箱を握り締め、レジに並ぶ私に白衣を着た薬剤師の方が「この薬は食間に飲んでくださいね」と言うのを聞き流し、お金を払うと待ち合わせ場所へと急ぎました。
 楽しみにしていたお食事会。食べたいと気力を振り絞っても体力が伴わず、仕方なくお粥を頼みました。ご馳走を横目に一人お粥をすすり、ちょうど半分まで食べ終えたときです。私は鞄から買ったばかりの薬を取り出し、水と共に飲み込み、飲み込んですぐに、お粥を口に運びました。円卓を囲む友人たちが呆気にとられているので、「食間に飲む薬」だと説明すると、しばらくの沈黙のあと、みんなが大笑いしました。そうなんです。「食間」とは、食事中ではなく、食事と食事の間の空腹時のことなんですね。だから夕食の時間帯に薬を買った私に、わざわざ薬剤師の方は念を押してくださったんです。けれども「食間」を理解している!と思い込んでいた私にとって、それは音として聞こえていても、本当の意味として聞こえていなかったんです。あ~あ、思い込みって滑稽なだけでなく、ほんと困りものですね。

 (機関紙「ともしび」平成27年4月号より)

 

和讃に聞く

「高僧和讃」
善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし

(『佛光寺聖典』五九二頁六九首)

 

【意訳】

 真実の教えに生きる人と出遇うことはもちろん、その教えを教化することは、そうそう簡単なことではありません。
 更に、その教えを聞くこと、信じることとなればは、なおさら難しいことといえます。

 久しぶりの休日。新しく出来た大型スーパーに出かけました。あまりの広さに、何がどこにあるのかさっぱりわからず、探しまわったあげく店員さんに尋ね、目的とする物がある場所まで案内いただきました。スーパーなら、店員さんに効けばすぐわかりますが、さて仏法となれば誰に聞けばいいのでしょうか?

 「遇う」ということ
 親鸞聖人は、ようやくにして遇うことのできた法然上人を「よき人」と仰がれました。
 それは単に「いい人」ということではなく教えに生きる人、そして、私が私を尽くしてゆける道を明らかにしてくださった人、善知識ということです。
 ともすれば、人に心酔しがちな私たちですが、親鸞聖人はその人の生き方に信順されたのです。その出遇いは、単なる「であい」ではなく、今日までの自身の生き方を一変させるものでありました。

 「聞く」ということ
 ある聞法会で「聞く」というテーマで開座されたときのことです。なぜ聞くのかという問いに対して、わからないから聞くと議論していると先生が一喝。「聞いてわかるお前か!」と。
 わからないから聞く、聞けばわかるというところから始まる限り、仏法はこの愚鈍の身には響かないことでありましょう。
 ふるく「仏法は耳ではなく身をもって聞け」といわれてきました。
 かつて京都府立大学名誉教授であった西元宗助先生が、佛光寺の研修会に来てくださったとき、「人生の師は、ひとりです。そのひとりの先生から、どのようなことをも聞いてゆける耳をたまわるのです」と力強くおっしゃったことが思い出されます。

 (機関紙「ともしび」平成27年4月号より)

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