真宗佛光寺派 本山佛光寺

2014年1月のともしび

御親教

門主 渋谷 惠照

 本日は、皆様方とともに行譜正信偈三首引を唱えさせていただきましたことを、大変有難く嬉しく思っております。
 さて現代の社会は、経済と自然科学の発展を基盤として、物の豊かな社会こそが幸福であるとして追求してまいりました。しかし現実は、広がる格差社会のなかで孤立感を深め、いよいよ人々の苦悩は深刻化しております。現代は真の喜びを見失っている時代であるともいえましょう。
 また近年は、長年に渉る環境破壊と地球温暖化による異常気象によって、猛暑や豪雨、台風による災害が多発し、多くの人々が苦しんでおられます。
 親鸞聖人は、『浄土和讃』に
  若不生者のちかいゆえ
  信楽まことにときいたり
  一念慶喜するひとは
  往生かならずさだまりぬ

と詠んでおられ、法蔵菩薩さまの、若不生者のちかいによって、ご信心をいただき一念慶喜する人は、往生が定まると仏さまのお心を讃嘆されておられます。 阿弥陀さまのご本願のお心に目覚めれば、まことの信心をいただき、浄土へ生まれ、仏となる身をいただくことが出来るのです。そしてその喜びについて、「慶喜」とは「ミニモココロニモ、ヨロコブナリ」と説かれています。
 煩悩とは、身を煩わし心を悩ませるものです。人は健康であれば身が喜び、自分の思い通りになれば心が喜びます。しかし、煩悩具足の身である私たちは、それを本当の喜びであると思い、一つ歯車が合わなくなれば、なかなか身心共には喜ぶことはできず、常に苦悩しております。阿弥陀さまは、そのような私たちのためにご本願を建立なさいました。
 本願力回向のお念仏のおはたらきによって、本当の自分の姿が照らし出され、智慧の眼をいただくとき、煩悩具足のままで救われる道を開かれたのでございます。
 昏迷の世の中にあって、私たちは、宗祖が顕らかにされましたみ教えに耳を傾け、お念仏を真のよりどころとして一道を歩んで参りたいと存じます。
 本日はようこそ御正忌報恩講にお参りくださいました。
(平成二十五年御正忌報恩講)

年頭のご挨拶

宗務総長 佐々木 亮一

 新年にあたり謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
 昨年四月に新内局が誕生してから、早や九か月が経過いたしました。
 振り返りますと最も悲しい出来ごとは昨年十一月五日に第三十代門主歓喜光院殿真承上人がご遷化されたことであります。真承様は時代の大きな変わり目に新門を約二十年間、御門主を約三年お勤めになりましたが、御病気で退任後は教団を案じつつお暮しになられておられたのであります。
 さて、国内外に目を移しますと、嬉しいニュースとしては富士山の世界遺産登録や東京オリンピック誘致決定などがありましたが、概ね悲しいニュースや痛ましい事件に明け暮れたように思われます。
 世界規模での環境破壊や地球温暖化の影響なのでしょうか、世界各地で異乗気象に見舞われ、地震、竜巻、集中豪雨、洪水などの被害が続出しました。日本も同様で、気象の変化を肌で感じさせる一年でもありました。
しかし、これらの被害の多くは単なる気象変化によるものではなく、福島原発に象徴されるように、人災の思いを強く抱くものであります。
 また、私たちの周りでは、地域共同体が生きる知恵として創り上げた良き習慣や風習が消え去ろうとしています。
 その原因の一つは携帯電話やパソコンなどの情報機器の急速な普及です。私たちは居ながらにして世界の情報を瞬時に手にすることが出来る反面、不確かで無責任な情報に振り回される生活を強いられています。
 二つは、モータリゼーションの発達で、世界を小さくし、人や物の移動を容易にしましたが、同時に経済や社会の枠組みを大きく変えてしまいました。これらによって地域社会は大きく変貌し、格差社会を生み出し更に家庭の崩壊へと進む中で痛ましい事件が多発しています。
 二年前の親鸞聖人七五〇回大遠忌に「変わる時代、変わる心、変わらぬ苦悩 変わらぬ念仏」という標語を掲げましたが、真宗の教えは、大きな社会変動の時代にあって、愈々生きた教えとなり、多くの人々に支持され受け継がれた歴史をもっております。
 今こそ、お念仏を確かな拠り処とする私たち真宗門徒は、家庭の中にお念仏の声を蘇らせることを通して、苦悩に満ちた時代を乗り切ることが出来るのであります。
 新年に当たり皆様と共にお念仏による誠の生活を過ごしてまいりたいと存じます。

常照我

「威風堂々」 撮影 谷口 良三氏「威風堂々」  撮影 谷口 良三氏

 

 いつでも、問われているのは他人ではなく、自分だと知る。 友人のお子さんの四歳男児。両親につれられ、ある店に食事に行った。運んできたみそ汁を店員さんが「こちら、おみそ汁になります」と言ったのを不思議がり、「えっ!おみそ汁になるんですか?」と訊いたそう。
 この場合、「・・・でございます」でいいはずが、いつから、そう「なった」のだろう。気にせずにいた私が問われている。
 その例で思い出して恐縮だが「仏教」は、仏の教えと書いて「仏になる教え」と読むのだとかつて教わった。だがそれでは真底、本願により仏に「なります」と言えるのか、新年に際し自分に問いかけてみると…。そこには、そんな究極の目標をめざすより、いま眼前の問題を解決したい、と思う私がいた。

 

  (機関紙「ともしび」平成26年1月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

 

「居場所」の巻

先日、壊れたお経机の補修のため、地元の仏具専門店へ出かけました。ひと通りの打合せを終え、せっかく来たのだからと仏具を眺めていたら、見知らぬ高校生が話しかけて来ました。「いいですよね。落ち着きますよね…」周りは念珠やお香、仏壇や仏具類です。高校生が仏具店で落ち着く…?あっけにとられていると、自分のことを問わず語りに話し始めました。
 部活の帰りらしく、スポーツバッグをぶら下げ、髪も制服も今風です。たまたまその高校の教師を知っていたこともあり、初冬の西日を浴びつつ、仏具店のショールームで、見知らぬ彼としばし話し込みました。
 とても不思議な高校生でしたが、多分、息苦しい高校生活の中で、自分を取り戻す居場所を求めているのでしょう。しかし、その場所が仏具店さんとは。
 現代は家庭の中に「聖空間」が無くなった、とよく指摘されます。床の間や仏間は、役に立たない無駄な空間と片付けられがちです。しかし、そんな古く懐かしい雰囲気に浸りたい願望もあるのかもしれません。
 「念仏してどこかに行くのではない。念仏するところに故郷は来ているのだ。だから念仏の中にふるさとを聞いていくしかない。帰る言葉を一つ与えよう、というのが南無阿弥陀仏である」とは安田理深先生のお言葉。
 ここには、面積を持つような場所はありませんが、遥かな昔からの居場所があります。
 彼の求める居場所は日々変わるのかも知れません。でも商品として、「ついでに」仏具を見る私とは違う、尊いものを感じさせられました。

 

 (機関紙「ともしび」平成26年1月号より)

 
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